ブログ移転しました

いつもご覧頂きありがとうございます。当ブログは今後基本的に更新せず以下の新ブログにて更新を行っていきます。

これまで以上にいろいろなことを書いていこうと思いますのでよろしくお願いします。なお、当ブログは当面このままの形で削除等を行いません。何かのお役に立てれば幸いです。

御茶ノ水両国間高架線

調査実施日:2008/04/27、2009/08/15

御茶ノ水両国間高架線(御茶ノ水駅付近)
御茶ノ水両国間高架線(御茶ノ水駅付近)

 

現在、JR 東日本総武本線の支線とされている御茶ノ水~錦糸町間のうち、御茶ノ水~両国間は 1923 (大正 12) 年 9 月 1 日に発生した関東大震災の復興時に全区間を高架橋として計画され、1932 (昭和 7) 年 7 月 1 日に開業しました。そして、現在も竣工当時の構造物により構成されています。つまり、既に 80 年近く現役であり続けていることになります。

この区間の完成により東京都心と千葉方面を東西に結ぶ軸が完成しました。総武本線の歴史は私鉄の総武鉄道が 1894 (明治 27) 年 7 月 20 日に開業した市川~佐倉間から始まります。千葉方面より少しずつ延伸を繰り返し、都心へのアクセスを目論んでいましたが、両国まで差し掛かったところでなかなかその先に進むことが出来ませんでした。隅田川が行く手を阻んでいたからです。

当時の一地方私鉄の資金力では架橋は難しかったのです。その後国有化を経て都心への延伸が検討され続けましたが、関東大震災後の復興の際に一気に計画が進みようやく完成しました。また、その建設工事はいわゆる震災後の失業対策も兼ねており、当時は『御茶ノ水両国間高架線』と通称されていました。

この御茶ノ水~両国間の構造物は特徴的なものが多く、日頃電車に乗っているだけではなかなか気がつきませんが先人たちの努力の結晶そのものだと思います。

ここでは、ごくごく簡単に紹介します。

まず、御茶ノ水駅付近からいきなり特徴的な構造物が姿を表します。神田川橋梁と松住町架道橋です。中央の神田川にハの字型の橋脚で架かっているのが神田川橋梁であり、その奥の緑色のアーチ橋が松住町架道橋です。ちなみに、一番手前のトンネルは東京メトロ丸ノ内線のものです。

御茶ノ水両国間高架線(御茶ノ水駅付近)

現代ではモノレールなどでこのようなハの字型の橋脚をしばしば見かけますが、当時としては斬新で画期的な構造だったことでしょう。また、松住町架道橋についてはブレーストリブタイドアーチという形式となっており、骨太でどっしりとした印象を与えます。

ちなみに、我が故郷福岡でこの形式のアーチ橋と言えば新日本製鐵の専用鉄道である『くろがね線』の枝光橋があります。こちらは現在は新橋梁の完成により鉄道橋としての役目を終えていますが、かつてはその下を JR 九州鹿児島本線がくぐっていました。現在は鹿児島本線も線形改良により枝光橋をくぐらなくなりましたが、現在も橋そのものは配管を支えるために現役です。

少し横道にそれました。御茶ノ水両国間高架線に戻ります。鉄道構造物として見どころの多い区間ですが、もう一箇所だけ紹介します。それは、秋葉原駅のすぐ東から始まる第一佐久間町高架橋です。

御茶ノ水両国間高架線(秋葉原駅付近)

この大胆な造形美には驚かされます。昭和初期の完成とは思えないくらい現代でも通用するデザインに思えます。また、写真ではアーチが分かりやすいように敢えて場所を選んでいますが他の部分では店舗などがアーチ部分に収まっているため、秋葉原駅のすぐ近くにこんなアーチの高架橋があることを知らない方も多いかも知れません。

一応この区間はまだ一度だけですが、通しで徒歩による現地調査済みですのでいずれは GNR にて調査報告書として公開する予定ですが、構造物は設計・施工・管理が適切に行われるならば 100 年以上に及ぶ寿命を誇れるものであることを証明してくれる区間だと思います。

幸い我々一般人も観察が容易な区間でもあるので、皆さんも是非関東大震災からの復興と東京都心の鉄道網の発達の歴史の一場面をじっくり鑑賞してみてはいかがでしょうか。なお、建設当時の資料として土木学会の『土木建築工事画報』に以下の記載がありますので興味のある方はご覧頂けると幸いです。

味の素川崎事業所専用鉄道跡

調査実施日:2008/04/12

味の素川崎事業所専用鉄道跡
味の素川崎事業所専用鉄道跡

 

京浜急行電鉄大師線の終点駅である小島新田駅はすぐ東を南北に走る JR 貨物の線路の手前に位置していますが、かつてはその先に駅がありました。また、さらに線路は伸び桜本駅という駅が終点でした。後に現在の川崎貨物駅と共に敷かれた JR 貨物の線路のために最終的に小島新田駅は現在地に移転した上で、小島新田~桜本間は廃止されました。その廃止区間については本家サイトである GNR において調査報告書を公開していますのであわせてご覧頂けると幸いです。

今回取り上げるのはこの小島新田駅の移転の理由となった現川崎貨物駅(旧塩浜操駅)から大師線の途中にある川崎大師駅のすぐ西に位置する味の素川崎事業所まで伸びていた専用鉄道跡です。

この路線は少々特殊なものでした。それは JR(当時は国鉄)と京浜急行電鉄とでは軌間が異なるのにもかかわらず、川崎貨物駅から分岐した狭軌の線路は小島新田駅のすぐ西で標準軌の京浜急行電鉄の区間内において三線軌道となり、そのまま川崎大師駅そばの大師線に面した味の素川崎事業所の入り口付近で分岐して事業所内へ伸びていたのです。

最終的にこの専用鉄道は 1997 (平成 9) 年に廃止されたため、現在ではこの三線軌道は撤去され通常の線路となっており面影はありません。しかし、それ以外の独立した狭軌での区間はわずかながら痕跡が残っています。まずは冒頭の航空写真をご覧下さい。南北に広がる広大な鉄道用地は川崎貨物駅へ続く貨物線です。そして、最上部に東西に走っているのが京浜急行電鉄大師線であり、ホーム上屋は小島新田駅のものです。

小島新田駅のホーム上屋のすぐ南の道路の途中より貨物線に向かって弧を描いて伸びるかつての専用鉄道用地の地割りが見て取れます。なお、この説明の前に気がついたあなたは重症です。なお、現役当時の航空写真は以下のリンクより御覧頂けます。

また、終点側となる味の素川崎事業所付近にもこれまたほんのわずかですが痕跡が残されています。それが下の写真です。線路右側の門こそかつて専用鉄道が分岐し、工場内に進んでいた入り口そのものです。

味の素川崎事業所専用鉄道跡

変貌著しい都市部の廃線跡は痕跡を残さない場合も多いのですが、この場合は鉄道構造物そのものこそ無いものの、かつてそこに鉄道が走っていた名残りを何とか留めている例と言えます。ちなみに、1997 年と言えば私は既に上京して都内に住んでいましたが、当時はこのような趣味を持っていなかったため、都心の三線軌道という貴重なアイテムをこの目で見れなかったことが悔やまれます。しかし、いずれ GNR にてこれらのわずかな痕跡を調査報告書として公開していく予定です。

西日本鉄道北九州本線跡(熊西~皇后崎)【(仮称)皇后崎橋梁】

調査実施日:2010/05/06

西日本鉄道北九州本線跡(熊西~皇后崎)【(仮称)皇后崎橋梁】
西日本鉄道北九州本線跡(熊西~皇后崎)【(仮称)皇后崎橋梁】

数年前に調査した案件を未だに当ブログ及び GNR においても未執筆及び未公開のものがてんこ盛り状態の中で、今回紹介する案件は本記事執筆の前週という未だかつてないスピード感溢れるものです。この勢いで GNR を執筆できれば。。。

何故にそうなったかと言うと、私が勝手に本邦初公開のものではないかと考えているからです。タイトルにある通り、西日本鉄道北九州本線の廃線跡を GNR – 第三次筑豊・北九州計画(調査前の計画用、現在調査後の整理中)と銘打って廃線跡や多くの鉄道構造物などの現地調査を行った中で事前情報無しに発見したものです。ただし、私が知らなかっただけかも知れないので早めに紹介することで何か情報を得られればと思っています。

場所は上の地図(画像クリックで地図サイトを別窓表示)に示した通りですが、鹿児島本線の黒崎~折尾間の南側にあったいわゆる西鉄北九州線の路盤跡の北側に流れる小さな水路に架かっている橋梁です。北九州線が現役の頃は鹿児島本線との間にあり調査不可能であり、樹木に覆われて気がつかれることもなかったようです。

何を以てそんなに取り立てているかは以下の写真をご覧下さい。写真は東側から西を向いて撮影しています。橋梁自体はほぼ南北に架かっています。

西日本鉄道北九州本線跡(熊西~皇后崎)【(仮称)皇后崎橋梁】東側全景

お気づきでしょうか。ねじりまんぽの煉瓦アーチ橋です。この西鉄北九州線では終端駅の一つであった折尾駅付近にも有名なねじりまんぽの煉瓦アーチ橋として『折尾高架橋』が有名で、現在進められている折尾駅周辺の再開発後も残されるようです。ところが、この小さなねじりまんぽは今まで Web や書籍でお目にかかったことがありません。橋梁としての正式名称が不明であるため、ここでは(仮称)皇后崎橋梁としておきます。

アーチ内壁部分の拡大です。よく見ると手前半分の目地にはモルタル等の目地材が見えますが、奥半分には目地材があまり無いように見えます。後年の改修なのかはたまた単に西陽の強い奥半分だけ劣化してしまったのかは不明です。

西日本鉄道北九州本線跡(熊西~皇后崎)【(仮称)皇后崎橋梁】アーチ部詳細

反対側つまり西側から見た全景です。一部削り取られたり亀裂が生じたりしていますが、比較的程度は良い状態と言えます。

西日本鉄道北九州本線跡(熊西~皇后崎)【(仮称)皇后崎橋梁】西側全景

ちなみに、このアーチ橋の方向に沿って北側を見ると以下のような光景となります。目の前を JR 九州鹿児島本線が左右に走っており目の前の草むら以上進むことは出来ません。

西日本鉄道北九州本線跡(熊西~皇后崎)【(仮称)皇后崎橋梁】北側を望む

同様に北側を見ると、ちょうどクレーン(UNIC)の付いたトラックのあたりをそのトラックの向きに西鉄北九州線が走っていたため、これまた通りぬけ不可です。

西日本鉄道北九州本線跡(熊西~皇后崎)【(仮称)皇后崎橋梁】南側を望む

ということで、このねじりまんぽの煉瓦アーチ橋は不思議な位置に不思議な方向に架かっており、一体何のための橋梁だったのかが不明です。そこでほんの少しばかり考察してみます。

■ 道路橋説

手持ちの明治 33 年版の旧版地形図ではちょうどこの煉瓦アーチ橋の位置に里道のようなものが描かれており現在の鹿児島本線(八代及と描かれている)を横切って(くぐって ?)います。ちなみに、西鉄北九州本線は大正 3 年に全線開通したため、この地図にはまだ登場していません。また、現在存在する煉瓦アーチ橋の下の細い水路も存在していないように見受けられます。

西日本鉄道北九州本線跡(熊西~皇后崎)【(仮称)皇后崎橋梁】旧版地形図(明治 33 年発行)

従って、この煉瓦アーチ橋は西鉄の線路建設と共に掘られたかも知れない水路を、以前よりあった道路が跨ぐように架けられたと考えられます。ただ、現在の鹿児島本線との立体交差がどうなっていたのかが謎です。さらには自動車がほとんど走っていなかった時代にこのような細い幅の道路にわざわざねじりまんぽまで適用して煉瓦アーチ橋を架ける必要があったかも疑問です。

今回の現地調査では鹿児島本線の北側にまで回り込んでの確認は行っていません。ただ、恐らくは大きな道路が隣接しているため、痕跡は残っていない可能性が高いと思われます。

■ 運炭線橋梁説

おっちー様より情報を頂きましたが、かつて黒崎~上津役まで詳細不明ながら運炭線が存在していたそうです。この煉瓦アーチ橋はその線路を通すためのものだったのではないかという説です。国土変遷アーカイブの昭和 23 年撮影の航空写真では何やら怪しいカーブが描かれています(矢印付近)。また、件の煉瓦アーチ橋のあたりは白っぽく写っています。

西日本鉄道北九州本線跡(熊西~皇后崎)【(仮称)皇后崎橋梁】旧版地形図(昭和 23 年撮影)

ただ、これも現在の鹿児島本線を横切っていたのか、またそもそもその運炭線と関係するのか明確な情報は得られていません。

なお、どういうわけかさらに鮮明な航空写真を以下の URL で見ることが可能です。

http://www.team-f.jp/rekishi/rekishi_03.html

いずれにせよ正体不明のこの煉瓦アーチ橋はその来歴が非常に気になると同時にこれまで存在すら気が付かれなかったものとして貴重な存在だと思います。今後も調査を進めていきますが、何か情報をお持ちの方はご教示頂けると幸いです。

今後調査が進展していけば、いずれ GNR にて調査報告書として公開する予定です。と言っても当記事でほとんどネタが出尽くしてしまった形になる、かも知れません。

羽田赤煉瓦堤防

2010/11/18 GNR – 多摩川【羽田赤煉瓦堤防】を公開しました。

調査実施日:2006/05/14、2009/04/11、2010/04/11

羽田赤煉瓦堤防
羽田赤煉瓦堤防

東京都と神奈川県の県境にもなっている多摩川はかつてご多分に漏れず暴れ川でした。平坦な地域では川は強烈な蛇行を伴ないながれるものですが、この多摩川のそうでした。上の地図で現在の流路と一見関係なさそうな位置に示された県境を示す黄色の破線がそれを語っています。

産業道路が多摩川を渡るために架けられたのが大師橋ですが、その北詰のすぐ東側の上の地図で押しピンを置いたところには船溜まりがありますが、その北側の道路が県境のラインとほぼ平行に見えます。つまり、この船溜まりに沿った道路はかつての河岸の位置を示しています。そして、ここには煉瓦で築造された堤防の一部が残されています。

いつの時代のものかまだ調査をあまり進めていませんが京浜河川事務所によると、関東大震災後の復興期にに作られたもののようです。

羽田赤煉瓦堤防

歩道整備に伴ないこの煉瓦堤防を警備 (!?) していた猫たちは、残念ながら担当地域が異動になったようで、冒頭の調査実施日の最後に訪れた際はいませんでした。

羽田赤煉瓦堤防

現在では新しい堤防がさらに南側に新設され主役の座こそ降りているものの、道路の護岸としてこの煉瓦堤防は第二の人生を過ごしています。上の写真は 2006/05/14 に撮影したものですが、当記事執筆時点(2010/04/19)では下の歩道が整備され少々雰囲気が変わりましたが煉瓦堤防そのものはそのまま残されています。

現地では何の説明板の類もありませんが、土木学会の『日本の近代土木遺産』において『羽田赤煉瓦堤防』として A ランクに指定されている貴重なものです。そして、この煉瓦堤防はここからさらに東へ断続的に続いて空港島の境に南北に流れる海老取川の少し手前まで続いています。

いつも GNR の調査で明治時代の鉄道構造物などで煉瓦構造物を訪ねていますが、川の堤防が煉瓦造というのは私にとっては少々新鮮です。皆さんも都心に残る貴重な煉瓦構造物として散歩がてら訪ねてみてはいかがでしょう。

ところで、私なんぞ三度も訪れておきながら未だに GNR に報告書を書けていないのは皆さんの散歩の楽しみを奪わない心憎い演出とご理解頂けると幸いです。

西武所沢工場引込線跡

調査実施日:2008/03/29

西武所沢工場引込線跡
西武所沢工場引込線跡

 

西武鉄道所沢駅そばにはかつて大手私鉄直営の唯一の車両工場として名を馳せた所沢工場がありました。戦後の復興期から操業を開始、自社の車両を数多く生産していた同工場は 2000 年に役目を終え閉鎖されました。

同工場そのものについては Wikipedia 及び以下の書籍を参考にして頂ければと思います(といいつつ私は未購入)。

 

駅に隣接する車両工場のため当然のことながら引込線が存在していました。そして工場の閉鎖と共にその引込線は『廃線』となりました。前述の Wikipedia によると 2006 年頃までは線路も残されていたようですが、私が訪れた 2008/03/29 の時点では既に所沢駅と同工場との間の線路は撤去されていました。

手前の道路の踏切跡に注目。

西武所沢工場引込線跡

しかし、工場の敷地内では建屋もレールも残されており、当時を彷彿とさせるものがありました。残念ながら敷地内には立ち入りできないため、金網越しのみ見ることが出来ます。

西武所沢工場引込線跡

当記事執筆時点(2010/04/14)現在、どのように変化しているのかしていないのか不明ですが、何か情報を得られれば再訪の上、結果を整理後 GNR にて紹介したいと思います。

JR 東日本東海道本線貨物支線跡【汐留~東京市場】

調査実施日:2008/03/02

JR 東日本東海道本線貨物支線跡【汐留~東京市場】
JR 東日本東海道本線貨物支線跡【汐留~東京市場】

 

『東京の台所』として有名な築地市場ですが、かつてそこには鮮魚等を輸送するための貨物引き込み線がありました。鉄分の高い方であれば上の地図を見るだけで一目瞭然だと思いますが、現在はすっかり再開発された汐留地区にかつて存在した旧国鉄汐留貨物駅から築地市場までの 1.1km です。

説明するまでもないかも知れませんが、念のためルートを上の地図で簡単に説明すると現在のカレッタ汐留付近から首都高の下を踏切で横切り日本郵便銀座支店及び浜離宮朝日ホールの脇をかすめて、今度は首都高を橋で渡り、築地市場に到達していました。終点は東京市場駅という名前の貨物駅となっていました。

築地市場の建物が弧を描いているのも、貨物列車を直に横付けし荷役しやすくするためでした。上の地図はクリックすると地図サイトが開きますので、航空写真に切り替えたりすると雰囲気がさらによく分かりますのでぜひご覧下さい。

かつては『とびうお』や『とうりん』と名付けられた鮮魚列車等が全国各地から築地市場まで運行されていました。現在のこの引き込み線の跡地は道路化されていますが、当時のカーブ形状はそのままであり、開発の進んだ都心の道路としては違和感のある線形となっています。そのおかげで今でも鉄道の名残を感じることが可能です。

また、地元の人の協力でかつて鉄道が敷かれていた証として、カレッタ汐留の道路向かいに踏切警報器が残されています。また説明板も設置され、都心に残る踏切跡としても貴重な存在です。細かい場所は以下のサイトをご覧下さい。

TweetPhoto – golgodenka

我が国の鉄道の歴史の原点とも言える汐留のすぐそばに鮮魚輸送を支えた鉄道の名残りをわずかではありますが今も見ることが出来ます。気軽に訪れてみてはいかがでしょうか。